「ピースリング・オブ・グアム」は1998年、南太平洋戦争戦没慰霊塔の清掃と供養をする事から始まりました。毎年年2回の定例清掃会を行い、2005年11月に法人としてグアム政府から認可を受けました。

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最後まで生きぬいた陸軍大将
2009-08-11 Tue 12:10
小畑英良

  1. 米軍グアム島に上陸
    7月21日8時 浅間(アサン)の混成48旅団、中村大隊正面と昭和湾(アガット)の歩兵第38連隊 大原大隊正面との二方面に同時に上陸を開始した。米上陸軍の総兵力は5万5千。砲弾と爆撃、機銃掃射は荒れ狂った。
    この夜歩兵第38連隊主力は総反撃を実施し殆どが戦死した。
  2. 7月25日夜、守備隊主力は浅間湾(アサン)に上陸する敵に最後の決戦を挑む。殆ど戦死。
  3. 7月27日 本田台、マンガン山を米軍戦車群が蹂躙する。
    7月28日 持久戦への移行。折田(オルドット)集結命令。
    高品師団長 的野高地(マカジナ)中腹で戦死。小畑軍司令官 代わって指揮。
    表半島(オロテ)守備隊玉砕。
  4. 春田山(バリガタ)、平塚(フィネガヤン)の布陣及び戦闘(8月3日)。
    宇久井(ウクド)、利久(リクアン)の抵抗陣地(8月6日)。
  5. 8月10日 叉木山(マタグアック)戦闘、小畑軍指令官は天皇陛下と大本営に最後の打電。8月11日 防衛陣地は突破され、14時35分 小畑軍司令官他 自決した。
    組織的戦闘は終わる。
  6. 以降、終戦までジャングル戦を続行した。
  7. 昭和47年(1972年)横井庄一さん帰還
    28年間のジャングル生活、島民により発見される

 
180px-Hideyoshi_Obata.jpg

1890年4月2日 -1944年8月11日(満54歳没)

生誕地 大阪府
死没地 グアム島
所属政体 大日本帝国
所属組織 大日本帝国陸軍
軍歴 1911 - 1944
最終階級 陸軍中将(死後大将に昇進)
指揮 第31軍司令官
第3航空軍司令官
第5飛行師団
戦闘/作戦 第二次世界大戦
*フィリピンの戦い (1941-1942年)
*ビルマの戦い
*サイパンの戦い
*グアムの戦い
 

小畑 英良(おばた ひでよし、1890年明治23年)4月2日 - 1944年昭和19年)8月11日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍大将

漢学者、小畑万治郎の五男として大阪府で生まれる。大阪陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て、1911年(明治44年)5月に陸軍士官学校(23期)を卒業。同年12月に騎兵少尉に任官、騎兵第11連隊付となる。1919年大正8年)11月、 陸軍大学校(31期)を優等で卒業。その後、陸軍大学校教官、イギリス駐在、インド駐剳武官参謀本部演習課長、騎兵第14連隊長などを歴任し騎兵畑を歩んだ。

1937年(昭和12年)から航空畑に転じ、明野陸軍飛行学校長、航空兵団司令部付などを歴任。1940年(昭和15年)、陸軍中将第5飛行集団長となり、さらに第5飛行師団長、第3航空軍司令官などを経て、1944年(昭和19年)2月に第31軍司令官となり、同年8月、グァム島玉砕。戦死後、同年9月に陸軍大将に進級した。

兄に日本国憲法創案を翻訳した小畑薫良外務省翻訳官、弟に小畑忠良内閣企画院次長、小畑信良陸軍少将がいる。妻の加奈子は、川村景明元帥陸軍大将の孫である。


フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参考


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